氷の下で息づく知恵
極地の氷床はこれまで生命と無縁の世界と思われがちですが、南極のボーリング氷柱を覗くと、塩分が濃縮した幅ミリ単位の細い「ブライン・ベイン」に微生物がびっしりと張り付いています。氷がゆっくり成長するときに押し出される海水中の塩は凝固点を下げ、マイナス数十度でも液体を保つことで彼らの居場所をつくります。
こうした微生物の多くは、細胞膜を柔らかく保つ不飽和脂肪酸や、自ら製造する「氷結阻害タンパク質」で凍結を防ぎます。さらにエネルギー源が乏しい環境では、光を使えない代わりに岩石中の鉄や硫黄を酸化させ、電子の流れを身を削り出すように確保します。その代謝速度は都市部の微生物の数千分の一ながら、数十万年単位で地球化学を変える粘り強さを見せます。
南極の長期閉鎖湖・ボストーク湖で採集されたDNAを解析すると、海洋、淡水、土壌など多様な環境の遺伝情報が混ざり合っていることが分かりました。氷床に閉じ込められたままでも、水平遺伝子移動によって酵素を共有し、気温の変化や塩分濃度への適応力を高めているのです。極限環境下でも協調して生き延びる戦略は、地球生命の適応性がいかに柔軟かを示しています。
近年は、これら極地微生物が生み出す新奇酵素の利用を巡って製薬や食品業界が注目しています。マイナス温度で働くタンパク質は冷凍食品の食感を保つ改良や、低温下での化学反応制御につながると期待されています。また、火星や氷衛星の探査計画では、極地微生物の生理をモデルに「どこまで生命は存続できるのか」という問いが再検討されています。氷の下に眠る彼らの知恵は、地球の未来と宇宙の可能性を同時に照らしているのです。
